「ジスモンダ」は劇作家ヴィクトリアン・サルドゥー Victorien Léandre Sardou 1831-1908 による戯曲で、ベルナールのため に書いた6本のうちの5本めにあたります。ルネサンス劇場での 初演は1894年10月31日。12月24日からは、サルドゥーがベルナ ールのために書いた最初の作品「フェードル」が上演され、1895 年1月4日から「ジスモンダ」を新演出で再演する宣伝のため、 1月1日、このポスターがパリの街に登場しました。 ポスターは第3幕のクライマックスをモチーフにしたデザインに なっており、15世紀のアテネの王妃ジスモンダ役のベルナールが 頭にアイリスの花飾り (受難の象徴) をつけ、イエスを迎える棕櫚 の葉 (永遠の命の象徴) を持ち「棕櫚の日曜日 (復活祭直前の日曜 日) 」の行列に加わる情景を描いています。 縦に長いデザインは、当時としては斬新なもので、ジャポニスム (浮世絵や掛け軸の縦長の構図)の影響が指摘されています。 1888年、パリに出てきたミュシャは絵画制作と生活のために本の 挿絵や広告パネル、カレンダーの制作をしていました。生活は苦 しく、1日14時間働いていたそうです。 1894年の年の暮れ(ミュシャ、34歳)、クリスマスでポスター 制作の担当者が休暇をとっている中、急遽、ミュシャにポスター 制作の依頼がなされました。しかしポスターの掲示まで、わずか 1週間しかありませんでした。 ミュシャにポスター制作を依頼した印刷所のスタッフは、出来上 がったポスターに難色を示しました。しかし、ベルナールに見せ たところ、彼女は黙ったままミュシャを抱きしめたそうです。 わずかな期間にもかかわらず、完成したポスターはご覧のとおり 見事なもので大評判となりました(ポスターの制作依頼を受ける 以前からミュシャはベルナールの舞台を見ていたのだろうといわ れています)。ポスターは4千枚準備されましたが貼り出すと すぐに剥がされて持ち去られたそうです。 この評判はベルナールの立場からみても幸運な出来事でした。ベ ルナールは1893年にルネサンス劇場を買い取って経営にも参加し ていましたが、1838年設立の歴史ある劇場をうまく経営すること ができていませんでした。そうした中、「ジスモンダ」再演が成 功を収めました。 ベルナールはポスターの見事な出来栄えに感嘆しミュシャと6年 に渡る独占契約をしました。これを契機にミュシャはアール・ヌー ヴォーを代表するアーティストとなり後世に名を残します。 |
ミュシャはベルナールのためにポスターだけでなく、衣装や装身具 もデザインしました。「メディア」のポスターに描かれている左腕の 蛇の装身具は特に有名で、ジュエリー作家であるジョルジュ・フーケ によって実際に製作されました(下図)。 ミュシャがデザインしフーケが製作したあれこれは こちら でどうぞ。 |
ベルナールはとてもアクティブな人物だったようで、オーストラリ アや、アフリカにまで一座を率いて巡業し、特にイギリスやアメリ カには何度も行っています。 また、シリンダーやディスクによる録音をしていて、1880年代には ニューヨークのトーマス・エジソン宅を訪問し、ジャン・ラシーヌ 「フェードル」の朗読を録音しています。 Wikipedia のサラ・ベルナールの項 には、この録音のリンクが あり、「黄金の声」と賞賛された彼女の声を聞くことができます。 また、10本の映画に主演(そのうち2本は伝記映画)していて、 なんと YouTubeに映像や声 が Upされています。ホント、YouTube ってありがたいですねぇ。 1905年、「トスカ」上演中に転落する場面で、スタッフのミスが 原因で右ひざに重傷を負い、1915年に右脚を切断しましたが、 それでも舞台に出演したそうです。 ミュシャは日本でも人気のある画家なので数年に一度、展覧会が 開かれています。その会場で、タバコ用巻紙「JOB」のポスターや 各地で開かれた展覧会カタログ等を集めました。 その昔、会社のクラブ活動で絵画部に所属してたころ、「JOB」を 色鉛筆で模写して新人勧誘のポスターを制作したことがあります。 優雅に流れる髪の表現が大変でした(下図)。 |
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